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袴
袴(はかま)は、和装において腰より下を覆うようにして着用する衣服の一種。 着物の上から穿き、紐で結ぶ。 弥生時代にその原型が成立し、近世期においては主に男子において用いられ、礼装とみなされてきた。
また、以上より転じて、ズボン状の男子の衣服(大日本帝国陸軍における「袴(こ)」)や下部を覆うもの、本体の外側にさらにつけるもの、などを比喩的に袴ということもある。 神道における巫女や弓道の弓道衣、近代では女子大・高校通学着、現代での卒業式の礼服や成人式用の礼服などとして女子袴(+小袖、中振、振袖)は定番となっている。
構造
現代における一般的な袴(馬乗袴)は、前後二枚の台形状の布の斜辺の下半分を縫いあわせ、さらに膝より下の部分がキュロットスカート状になるように縫製した構造になっている。 足を入れても充分に余裕があり、布は裾にゆくほど大きくあまる構造になっている。
前布には襞(ひだ/ひだめ)を取り、通常外側から順に一の襞、二の襞、三の襞と呼ぶ。 後布は左右に分かれており、襞は取らない。 後布はその上辺に板や厚紙を入れた小台形の部分を持ち、これを腰板と呼ぶ。 後布は前布より腰板の分だけ長くなる。
前布、後布には、それぞれ最上部(後布の場合には腰板の底辺)の辺の左右から一本ずつ、合計四本の紐(実際には幅七分程度の細長い布状のもの)が出ており、これで袴を腰に固定する。 前布より出るものを前紐、後布より出るものを後紐という。 前紐は後紐の二倍程度の長さがある。
袴はふつう左足から穿くものとされる(左から動作を起すのは日本の伝統的な作法)。 両足を袴のなかに入れた後、前布、後布の順番で紐を腰に結びつけ、袴を固定する。 前布の紐は後(帯の結び目)で一度交差させて前に出し、前布の下5cmから10cmを紐が通るように按配して(かりにこれを(a)とする)、もういちど交差させ(二度目に紐をどこで交差させるかは、右腰、左腰、前布の中央などさまざまなやり方があるが、一般的には右腰であることが多い)、後で紐を結ぶ。
次に後布の腰板を背中に密着するように按配しながら、帯の結び目の上に置く(腰板にヘラがついていれば帯のなかに差込んで固定させる)。 そののち後布の紐を前に回し、上記(a)の紐の中央の部分で結ぶ。 結び方は、後紐の一方(これをかりに(b)とする)が上になるようにして前紐(a)の中央部分に重ね、もう一本の後紐(これをかりに(c)とする)をさらにその上に重ねる。 下から(a)→(b)→(c)の順で重ねられたら、(c)の後紐を(a)の下にくぐらせ、(a)(b)(c)三本が重なった部分に垂れかぶさるように(a)の紐の上に出す。 その後(b)の紐を逆の方向に折返し(たとえば(b)が左後方から右前方に伸びる後紐だとすれば、結び目から折りかえすようにして、右前方に伸びる部分を左に引く)、もういちど(c)の紐を巻くようにして一回転させる。
次にあまった後紐を結んで始末する。 袴の紐の結びかたには主なものとして以下のようなものがある。
十文字
もっとも一般的な結びかたで、礼装の場合にも用いられる。 上記(c)の紐を5cm程度の幅に折りたたんで横の「一」とし、その中央部を結び目にあわせて(b)の紐で何度も(a)に巻きつけ、最後に縦の「|」が(a)の下から出るように按配する。
一文字
十文字の変形。 礼装などに用いられるほか、能装束の大口袴は一文字に結ぶ。 十文字の縦の「|」を作らず、(b)の紐を端まで結び目に巻きつける。
結びきり
書生結びともいい、動きやすく結び目がゆるみにくいので、武道などでもちいられるが、袴のはきかたとしては略式。 (b)(c)をこま結びにした後、残った紐を(a)に重ね、適当なところで紐にはさんで始末する。 紐の生地が薄くやわらかい袴でないとできない。 明治時代の書生はこま結びにした残りのたれを始末せず、前にたらす穿きかたを好んだので、だらしないと顰蹙を買うことが多かった。
蝶結び
衣冠束帯などの指貫に用いられる。 能のシテ方金春流でも仕舞袴を蝶結びにして穿く。 (b)(c)を蝶結びにしたあと、輪と垂れを(a)にはさんで始末する。 また女物の袴では、蝶結びもしくは輪結びをしたあと、垂れを長く出して装飾的に穿くことが多い。
なお、袴の前布は帯が多少見える程度に穿くのが望ましいとされることもあるが、本来の穿きかたではない。 もっとも正式には帯が見えないように着付けるのがただしい。
袴の下に着る長着の裾を端折ったり、袴用にひざ丈の長着をあつらえたりすることもある。

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種類
馬乗袴・行灯袴
袴のなかに中仕切り(襠)があるものを馬乗袴、ないものを行灯袴という。 行灯袴は袴が町人のあいだでも穿かれることの多くなった江戸時代後期に発案されたものであり、本来は略式とされたが、現在では馬乗袴と同じく礼装にも用いられる。 それぞれ種類は多岐にわたるので、袴全体を二分する大まかな概念であるととらえたほうがよい。
一般的な袴
上記「構造」の項で説明したような男物の袴。 仙台平などの縞の絹地で作った場合には、紋付とあわせて礼装とすることができる。
仕舞袴
能楽師が仕舞や舞囃子の際に用いる特殊な袴。 該項参照。 なお「馬乗袴」の言換えとして仕舞袴の語が用いられることもある。
舞袴
日本舞踊や剣舞などで使う袴。 仕舞袴よりもふつうの袴に近い外見を持つが、立居の際に皺や襞ができないような工夫がされている。
軽衫(かるさん)
戦国時代に来日したポルトガル人のズボンにヒントを得てつくられた袴。 裾が足首につくようにすぼまっており、活動的で動きやすい。 のちに野袴、山袴、裁付などに発展した。
女袴
明治時代から昭和初期には女学生の制服として多く着用された。 現在でも卒業式における女性教員、女子大生の定番の服装である。 現在着用されるものの多くは行灯袴と呼ばれる長い巻きスカートのようなタイプで腰板がない。 一部神社の巫女や現代の女性皇族、雅楽舞踊の演者などには、男子同様の足を通す部分が二つに分かれたタイプの着用も見られる。 男袴とは前後の襞の数が違う。
指貫(さしぬき)
衣冠束帯や狩衣など男子の平安装束において用いる袴。
捻襠袴(ねじまちはかま)
主に十二単で着用する袴で、馬乗り袴の一種である。 但しタックをとって仕立てる馬乗り袴と違い、ねじまち袴はギャザーを寄せて仕立てるという違いがある。 また、腰ひもに特徴があり、通常の袴は後ろ紐と前紐があるが、この袴では左脇の部分が輪になって後ろ紐と前紐がつながっている状態である。 現在では十二単で着用する後ろに長く引きずる「長袴」と袿袴装束で着用する足首までの長さの「切袴」の2種類がある。
裁付(たっつけ)
野袴、山袴などともいい、軽衫から発達して作業着として用いられた袴。 農山村で広く使われた。 腰回りはゆったりしていて、脚部を細くつくり、動きやすくしている。 野袴とも言う。 戦時中は銃後の防空作業に適することから、山袴の一種であるもんぺの着用が女性に強要された。 現在では大相撲の呼び出しや歌舞伎の道具方、手古舞が穿いているのを目にすることができる。

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打掛
打掛(うちかけ)は、日本の女性の着物(和服)の種類の一つ。 本来は春、秋、冬の衣料だが、結婚式の貸衣装では紗などから作られた夏物の打掛もまれにみられる。 別名「掻取」(かいどり)。 遊里では「かけ」「しかけ」と呼ぶことも。 結婚式で新婦が着ることがある。
特徴
内側に着用する着物より一回り長めの丈に仕立てられ、すそには「ふき」といわれる綿をいれて厚みを出した部分がある。
「ふき」は打掛のようにおはしょりを作らず床に裾を引く着物に見られるもので、裾周りに厚みの有る部分を作ることで足に衣装がまとわりつくのを防止する目的がある。
また「ふき」を特に厚く仕立てることで、強化遠近法の応用で実際よりも身長を高く見せる効果もある。
刺繍や絞りのほか摺箔、縫箔などをあしらって、衣装全体に絵画を描くように模様をあしらう。
歴史
打掛が着られるようになったのは、裕福な武家の女性が内着である小袖の上に打掛を羽織った室町時代からである。
江戸時代、大奥に勤める上臈・中臈など高位の女性が打掛を着た。 内裏の上級女官や一般公家の女性も 日常的にこれを用いた。 江戸時代後期に、上方や江戸等の富裕な町人女性が婚礼等に着用するようになった。 また江戸吉原や京島原など特定の遊郭の太夫の正装でもあった。

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直垂
直垂(ひたたれ)は日本の和服の種類の一つ。 男性用。 なお、平安時代の貴族社会で「直垂」といえば、普通「直垂衾」(着物の形をした絹綿入りの布団。 今のかいまき布団のようなもの)をさす。
発祥
古墳時代の頃から着られていた、現代の一般的な和服のように前で打ち合わせるタイプの衣料が基である。 つまり、束帯、直衣などより古くから日本に存在した衣料が起源である。
形態
時代によって変動が激しいが
上半身用と下半身用との2部式という構成である。
上半身の衣料は盤領(あげくび。 詰め襟のような襟)でなく、前合わせであり、打ち合わせを紐で結ぶ。
上半身の衣料の脇が縫われておらず開いている。
下半身の衣料はズボンと同じ形式である
という点は古くから変わらない特徴といえる。
歴史
平安時代以前
古墳時代、男子をかたどった埴輪は上半身には前合わせの着物、下半身には別仕立てのズボンのような物を着用している。 これが直垂の起源と思われる。
しかし飛鳥時代以降、律令制の導入により、衣料も大陸伝来の物が正統とされるようになっていき、朝服に位置を取って代わられた。
その後は一般庶民の衣料として、朝服や狩衣など大陸から渡ってきた衣服の影響も受けて変化をしながら着られていた物と思われる。
鎌倉時代
院政期の頃から武士が政治の表舞台に立つようになっていったが、この武士の平服であった直垂も武士の地位の上昇と共に正装として認められるようになっていった。 正装化と共に威儀を正すために、従来は筒袖であった袖は次第に大きくなり、袴もくるぶし丈まで長くなっていった。 大きくなった袖は、いざ戦闘の際には邪魔になるため袖口に袖を絞る紐を通す慣例が始まった。 また、古墳時代の男子衣料や、大陸の影響を受けた束帯、直衣などは上衣を袴の外に出して着るのが通例であったが、直垂は活動の便宜を図るため上衣を袴の中に着込めるようになった。
なお、将軍など高位の武士は直垂ではなく水干を正装として着用していた。 中級以下の貴族もまた鎌倉時代後期には直垂を平服として着用するようになっていたことが、文献資料により知られる。 また、形式化した直垂に対し、従来の簡素なものは袖細・四幅袴と呼ばれ庶民や武家奉公人が着用したが、庶民でも中流以上は武士と同様に大袖の直垂を着る者も多かった。

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室町時代
南北朝の動乱による貴族社会の地位の低下により、直垂は公家貴族の平服として着用されるようになる。 束帯・直衣・狩衣などは、儀式などの必要に応じて着用するものになった。 参内には束帯・衣冠・直衣に限られたが、室町時代には直垂を「下姿」と称して参内に使用した。 特に応仁の乱で室町殿に一時天皇が移ると、この習慣は広まったが、摂家などを除き、下姿の時は天皇の御殿に昇殿することは許されなかった。 江戸時代に入ると復古的風潮から公家社会では狩衣が再び盛行し、下姿での参内もなくなる。
一方で武士の中での階級差に対応するように直垂から大紋、素襖などが派生していった。 特に直垂は幕府より屋形号を許された足利一門や守護や国人の家臣に限り、侍烏帽子と直垂の着用が許されており、直垂の着用に制限が出来たのもこの頃である。
直垂の素材は一定しないが、室町幕府将軍は白の無紋の絹を多く用いた。 鎌倉時代の直垂は袴の裾をくくっていた。 くくりの袴は丈に余裕を持たす例であったが、室町後期頃にはくくりをせず、丈に余裕のある袴の裾を踏んで歩くことが起こり、近世の長袴につながった。 なお、直垂・大紋の袴の腰紐は白とし、素襖は共生地を用いた。
戦国時代にはいると、直垂の袖すら邪魔となり肩衣という物が生まれた。 これは後に裃となっていく。
江戸時代
江戸幕府により、直垂、大紋、素襖は高位の武家しか着られない衣料とされた。 直垂の着用が許されたのは四位以上の武士に限られたが、これはほぼ幕閣を輩出する有力譜代大名、国持大名、御三家、将軍に重なる。 また色も葡萄色(えびいろ)は将軍のみ使用、緋色は大納言以上のみ使用、浅黄色、萌黄色は使用禁止の禁色(きんじき)とされた。 また着用できるシーンも元服や将軍に年始の挨拶をするときなど、事細かに限定された。 また、袴の長さが著しく長くなり(長袴)、引きずるほどとなって活動には適さない様式となった。
近世の武家の直垂は絹無地である。 将軍家は精好紗(透精好)という横糸の太い紗、諸大名は精好という羽二重の厚いような生地を用いた。 いずれも裏は無い。 また袖くくりは狩衣のように全体に通すのでなく、袖下に小さな輪のようにつけて「露」と称した。 諸大名は禁じられた色を避けるために経緯(たてよこの糸)の色を変えた織色(玉虫)を好み、紫と緑の糸で織った松重、紫と黄色で織った木蘭地など、渋く上品な「織色」に趣味を競った。 袴は先述のように長袴で、裾のくくりはない。 上級武家のなかには内々に短い袴の直垂も用いたようで、遺品もあるが、公的な制度にもとづくものではない。
近世の公家社会での直垂着用は著しく限られたが、用いるときは綾や固織物など、狩衣地に準じた紋織物を使用し、袴も切袴で(形式的なくくりをつけたものもある)、袖にも狩衣のようなくくりを通したものが多い。 特に明治維新の頃は服制の緩和により公家社会でも一時さかんに使用され、そのころの遺品は少なくない。
近代
明治初期には朝廷出仕の際の礼装になったが、明治5年に太政官布告により礼服が洋服となり、直垂は公服としての役目を終えた。
現代
神社における祭礼時の奉仕者や、雅楽の演奏者、また、大相撲の行司などが着用している姿を見ることが出来る。 また狂言や歌舞伎の舞台衣装として残っている。 このように伝統芸能等の世界でしか着用している姿を見ることが出来なかったが、近年では結婚式の際に花婿衣装として用いる場合もあるようだ。
最近様子がおかしい
セフレ関係も終わりに近いのかもしれない。
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