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付け下げ
付け下げ(つけさげ)は付下げとも書き、日本の女性用の和服。
付け下げは正装か
付け下げの特徴として
絵羽模様がない
家紋を入れない
八掛が共裾ではない
ことが挙げられる。 絵羽模様とは、裁ち目のところで模様がつながっている物を指す。 裁ち目のところで模様がつながっていないと、それは絵羽模様ではない。
正装とみなされるには、絵羽模様があることと、家紋が入っていること、裾回し(八掛)が無垢仕立て=共裾であることが必要である。 付け下げは、正装と普段着の間に位置するとされる。 20世紀前半に小紋を作る手法を発展させて、布を裁断すると模様の上下方向が統一されるようなデザインを反物の布に描く技術が発達した。 この技術により、小紋よりも華やかな模様のある和服を作ることができるようになった。 そのような和服が付け下げと呼ばれた。
現在、付け下げには絵羽模様がなく、また家紋を入れないことが多いので、正装とはみなされない。 しかし非常に華やかな模様の付け下げは、留袖ほどには正装ではないが、訪問着の正装の度合いに準ずるぐらいのものだとみなされている。 訪問着であっても趣味的な軽い柄付けのものより、古典柄で柄置きがされた付け下げが格が上とみなされることもあり、訪問着と付け下げの差が縮まっていく傾向にある。 付け下げが登場した頃は、まだ模様の華やかさでは訪問着に劣る和服であった。 しかし、次第に凝った華やかな模様の付け下げが作られるようになっていった。
客が注文してから服を作る販売形態においては、付け下げは、小紋と同様に、反物の状態で販売されることが多い。 和服を売る立場の人たちは、付け下げは訪問着の代替品になる、と宣伝して販売した。 これは価格の張る絵羽物の訪問着より着尺(反物)の状態で売られている付け下げの方が安価なため客に売りやすいという意味もあり、本来であれば訪問着をというところを価格の面で買えない場合付け下げでも買ってもらいたいということもあって、正装の度合いの点で代替品だという主張だと解するべきである
珍説
ちなみに「ファシズムの国家権力により訪問着の生産が弾圧されたのが原因で、労働者階級がやむなく付け下げを代替品として考案した」というような説があるが、これには反論がある。

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小紋
小紋(こもん)は日本の着物(和服)の種類の一つ。 全体に細かい模様が入っていることが名称の由来であり、訪問着、付け下げ等が肩の方が上になるように模様付けされているのに対し、小紋は上下の方向に関係なく模様が入っている。 そのため礼装、正装としての着用は出来ない(江戸小紋を除く、理由は後述)。
現在は模様の大きさや密度に関わらず、上下方向関係なく模様が入っている着物は総称して「小紋」という。 染めの技法によって「紅型小紋」「絞り小紋」「更紗小紋」など多種多様な小紋が存在する。 その中で、主な「小紋」の技法として知られるのは「江戸小紋」「京小紋」「加賀小紋」である。
東京染小紋
江戸時代、諸大名が着用した裃の染めに由来する小紋。 現在は「江戸小紋」と「東京おしゃれ小紋」の二種に分類されている。 1976年(昭和51年)6月2日に伝統的工芸品に認定された。
江戸小紋
江戸時代、諸大名が着用した裃の模様付けが発祥。 その後、大名家間で模様付けの豪華さを張り合うようになり、江戸幕府から規制を加えられる。 そのため、遠くから見た場合は無地に見えるように模様を細かくするようになり、結果、かえって非常に高度な染色技を駆使した染め物となった。 また、各大名で使える模様が固定化していった。 代表的な模様として「鮫」(紀州藩徳川氏)、「行儀」「角通し」(以上をまとめて「三役」という)、「松葉」(徳川氏)「御召し十」(徳川氏)「万筋」、「菊菱」(加賀藩前田氏)、「大小あられ」(薩摩藩島津氏)「胡麻柄」(佐賀藩鍋島氏)がある。
いっぽう、庶民もこの小紋を真似するようになり、こちらは生活用品など身近にある物を細かい模様にして洒落を楽しんだ。
江戸小紋は型紙を使って染めるのが特徴であるが、この型紙は江戸で作ることが出来ず、もっぱら伊勢に注文していた(伊勢型紙)。 現在は染め職人より型紙職人の後継者不足が江戸小紋の問題となっている。
柄行きにもよるが、上記のように大名が着用していたという経緯から江戸小紋は格式が高く、背中に家紋を入れることで色無地と同格になり、準礼装となる便利な着物である。
「江戸小紋」の名称は昭和30年(1955年)に東京都の小宮康助が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された際に「京小紋」と区別するために名づけられた。
東京おしゃれ小紋
東京染小紋の技法を用いながら現代的な模様・染料を用いたもの。 江戸小紋と区別するため東京おしゃれ小紋と呼ぶ。
京小紋
古くから型染め技法を使って着物を制作していた京都だが、型染めを駆使した小紋生産が隆盛したのは明治時代以降であり、京友禅の派手な柄いきと型染めを融合させたものを一般的に「京小紋」という。 単色染めの江戸小紋に対して多色染めであり、当然ながら一つ一つの柄も江戸小紋より大きく、抽象柄より具象柄が多く、見た目が華やかである。
加賀小紋
上記「京小紋」の影響を受けて石川県で作られ始めたのが「加賀小紋」であり、色使いに加賀友禅の技法が取り入れられている。 一方で「江戸小紋」の影響を受けて作られた「加賀小紋」も石川県には存在する。

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色無地
色無地(いろむじ)とは、日本の着物の中で柄のない黒以外の無地の着物のことをいう。
家紋を入れることで訪問着などと同様に礼装として着ることもでき、家紋がなければ普段着として着ることができるうえ、黒の帯をすることで略式の喪服とすることも可能であるというTPOを選ばない便利な着物である。 また、薄いグレー地の九寸帯などをすれば、法事にも可能。
関東地方においては「江戸小紋」という武士の裃(かみしも)に使われている柄も、これと同様の用途で用いることができるが、関西方面においては江戸小紋は色無地ではなく「小紋」の位置づけがなされている場合もある。
茶道では万事派手を退け、道具の柄との喧嘩を避ける意味から、茶事では色無地着用が推奨される。
紬
紬(つむぎ)とは、紬糸を機織りの緯線・経線の片方若しくは両方に用いて織った布、若しくは縫製した和服。
紬は綿を解いて紡いだいわゆる木綿糸、または絹糸のうち本繭と呼ばれる楕円形の繭とは異なり、本繭よりも劣るとされる太くて節の多い玉繭から紡いだ手撚りの玉糸(節糸とも言う)やくず繭と呼ばれる変型した繭から紡いだ紬糸を機織りの緯線・経線の片方若しくは両方に用いて織った布をいい、手撚りした糸(紬糸)の太さに均一を求めない。 このため本繭から作る絹糸を用いた布の表面が絹独特の光沢を帯びるのに対し、紬は鈍い光沢を放ち表面に小さなこぶが生じ、独特の風合いをだす。 耐久性に非常に優れ、数代にわたって着繋がれることから、相応の価格で取り引きされる。
紬は丈夫なことから古くから日常の衣料や野良着として用いられた。 このことから材質が絹であっても正装に用いてはならないとされ、外出着若しくはお洒落着として用いられることが多いが、近年では略正装程度であれば用いる場合がある。

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主な紬
米沢紬
仁田山紬
結城紬
牛首紬
信濃紬
飯田紬
郡上紬
椎名紬
久米島紬
大島紬(奄美大島)
交織紬
琉球紬
弁柄紬
塩沢紬
遠州木綿(遠州綿紬)
紬いろいろ
紬はもともと野良着であったのを江戸時代の通人が見出し、色合いが渋い上に絹なのに絹らしい光沢を持たない、さりげなく趣味の良さを主張できる粋な反物として人気を博した。 そのため農村の若い女性にとっては大切な収入源となったが、紬の名産地米沢の女性たちは丹念に織り上げた布を出荷する夜には別れを惜しみ「米沢の女は紬を抱いて寝る」とも言われた。 女性たちが丹精込めて織り上げた布は数代にわたって使えるほどである。 織るのに手間がかかることもあって現代では着物好きの人が趣味的に着用する衣装として高額で取引されている。
野良着として使われたということもあり紬は非常に丈夫で、父から子へと数代に渡っての遺産ともなった。 しかし裏を返せば、織りたてでは生地が硬く着心地がよくないため、裕福な商人は番頭などに自分の紬を着せて柔らかくなった所で自分で着用したという話もある。 嘘のような話ではあるが、現代でも著名な落語家が弟子に自分の紬を着せて着易くなってから取り上げたという逸話がある。
江戸期に贅沢禁止令が出された折に高価な絹物を着ることが禁止された。 しかし富裕な町人たちは絹を着ることを諦めずに「遠目からは木綿に見える」ということで工夫され、絹であるのに木綿と言い張って着ることができるようになるようにと好んで着るようになったという説もある。

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浴衣
浴衣(ゆかた)は和服の一種。 肌の上に着る略装である。
歴史
平安時代の湯帷子(ゆかたびら)がその原型とされる。 湯帷子は、平安中期に成立した倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)によると、内衣布で沐浴するための衣とされている。 この時代、複数の人と入浴する機会があったため、汗取りと裸を隠す目的で使用されたものと思われる。 素材は、水に強く水切れの良い麻が使われていたという説がある。
安土桃山時代頃から、湯上りに着て肌の水分を吸い取らせる目的でひろく用いられるようになり、これが江戸時代に入って庶民の愛好する衣類の一種となった。
「ゆかた」の名は「ゆかたびら」の略である。
着方
通常は木綿地の単物で、和服の中で最も単純かつ基本的な構造となる(このため戦後のある時期まで家庭科の授業では浴衣を縫うことが多かった)。 着用の場合には、本来は素肌の上に直接着るものとされており、近年では下着を着用することが多くなったが、それでも和装用スリップや肌襦袢程度である。 生地が薄く、開放的で風通しがよいことから、もっぱら夏場や湯上り、あるいは寝巻きとしての用途が主である。 また、男子は三尺帯、女子は半幅帯で着るのが古風であるが、明治以降兵児帯(へこおび)が流行したこともあって、これを用いることもある。 さらに最近では男子は角帯を用いることも多い。 角帯は元来浴衣には合わせないものとされていたが、この意識は薄れつつあるように見受けられる。 事実、浴衣と角帯のセットで販売されることも珍しくない。
浴衣に合わせる履物は、素足に下駄が一般的である。 浴衣と下駄はセットでも販売されているが、もちろん下駄は好みのデザイン・鼻緒でよい。 最近では浴衣に足袋をはいて草履や雪駄を履くこともしばしば見られ、さらにはビーチサンダルや洋服用のサンダルを合わせる人もいる。
元来が略装の最たるものであるから、浴衣で出かけられるのは気取らない場所にかぎり、この格好で人と会うのは失礼とされる。 ただし現在では和装そのものが稀になりつつあることもあり、こうしたしきたりをあまり感じない人も多い。 むしろ、夏の祭りなどの行事に浴衣をわざわざ着て行く以外に、習慣として和服を着る機会が少なくなっている現在、浴衣の着る機会の多い若い女性を中心に、浴衣は略装であるという感覚も失われつつある。
人気があるのは何故か? 熟女はやっぱりいいものです。
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